ちょス飯の読書日記

 『十六夜橋』  ★★★★★  (いざよいばし)

十六夜橋

十六夜橋

 
 作者の祖父母、両親をモデルに祖父・直衛の商売が隆盛を極めていた頃のことを描いた物語。おもか様(作中では志野)が、発狂していく様子が静かに語られる。
 また、志野が嫁入りするときに付いてきた重左という下僕のじいさんの、細やかな心遣いと、お嬢様を守ろうとする一心の忠義や、志野の娘お咲きが産んだ孫娘 綾(作者本人と思われる)から慕われる三之介という、雇い人の優しさが美しく悲しく語られる。主従の物語でもある。
 自然描写が素晴らしく、ある言葉から、場面が一転し過去に戻る。そして、また今に帰ってくる。夢のごつある。なんと格調高い文章だろうか。
 
 最後に、行方知れずになった目の見えない志野が、ハンセン病の巡礼たちだと思われる人々と一緒に、海水に浸かり夜の海で声明を唱えている場面は、嬉しくて悲しかった。お咲は、目も耳も唇も変形してしまった人々に。おっか様の行方を尋ねようと海に入って行ったのだった。

 貧しさ故に、女郎屋へ売られたお小夜が、客に来たこともない薬屋の下働きの青年に恋をして、自分を女郎屋から落籍させて囲っていてくれる直衛を裏切って、逃避行する場面も、しんとして素晴らしかった。三之介はお小夜の弟であるという、設定はちょっと出来過ぎ。これは、創作だと思われる。

 苦界に生きる娼妓たちを、なんと温かいまなざしで作者は見ていたのだろう。

 石牟礼氏の名前の由来となった「道」について、祖父直衛が語る場面がある。314頁
 「人は一代、名は末代ちゅうが、セメントも鉄筋も、今いま出来の品物ぞ。石にくらべりゃ、何の格もなか。河川や築港工事に限らず、物事の土台というものは、地中に深う埋め込まれて世間の目には見えん。じつはこの見えんところが一番肝要じゃ。四十年、五十年と経ってみろ。百年経ってみろ。どういう仕事をしたか後の世にわかる。道路ちゅうもんは先々に生きてくる。今の事業化どもは、一代ももたんようなやっつけ仕事をして、手広くこなすばっかりが、よかと思うとる。末代にかけて仕事はせんばならん。後略」