26日未明、重度の障がい者が襲撃される

 大変な殺戮が、狂人によってなされた。この夜ラジオ深夜便で一報を聴いたが、朝になって19人もの最重度の知的障害のある人が寝ているところを、襲われて殺され、26人もの人が負傷した。

 しかも、犯人は世のために美しい国日本のために、彼の信念に基づいてやったという。

 なんという恐ろしい事件だろうか。

 後にだんだん、彼の人となりや事件に至る前段が語られ始めた。なんとこの計画を既に、衆議院議長に手紙にして渡しているというではないか。その段階で、要注意人物として公安なり地元警察に彼の尾行を始めてもらいたかった。

 大麻不法所持で何故逮捕できなかったのか。

 措置入院後に何故民生委員なり薬物中毒者の支援団体が彼から目を放さず、生活を支援したりしなかったのか。こういう情況になった男は、隣近所とは既に付き合いは無いだろうが・・・。

 近所付き合いもないのに、両親は彼を見捨てたのか。家族が彼を管理するという条件の元で、精神病院から野に放たれたはずだ。

 これからもっと、事件の背景や彼自身の変貌の理由が明かされていくだろうが、未然に防げなかったことが、悔しい。

 キリスト教では、「この子らを世の光に」と言った。日本ではじめての障がい者のための養護施設を作った人の言葉。神は栄光を表すために、障がいのある子を世の中に生ましめるのだと。わたくしの出身大学では、このことを学んだ人たちが、多く福祉の仕事に就いている。

 介護は、その仕事の過酷さに比べて、社会の評価の低さも問題だっただろう。低賃金と人員の不足。過密な仕事だったのではないだろうか。意思の疎通の出来ぬ人を、介護するのはタフでなければならない。職員として、成長していかねばできない仕事だったことだろう。

 かつてヒットラーが民族の優秀性を維持するために、税金を福祉に回さぬためにと、障がい者をどんどんガス室に送った。日本でも、北欧諸国にも優性保護という言葉で障がいのある胎児の中絶や、障がい者の断種、不妊手術をした時代があった。

 また、現在も妊娠中に障がいが判明すればオロスのは、個人の判断で罪にはならない。しかし、・・・。生まれて来た子を殺すのは罪で胎児なら無罪とは。オカシイではないか。

 さて、もしかしたらわたくしだって、相模原のやまゆり園のあのベッドで生まれつき寝たきりの人だったかもしれない。あの日、いきなり頚動脈を掻っ切られて、絶命したかもしれない。

 植松 聖くんだって、寝ている側の人だったかもしれない。

 そうされたくないことを、なんぴとに対しても為してはならない。誰にでも生まれながらに平等で、生きる権利があり、幸せを追求できるのだから。

 人を殺せる権利は、さとし君にも誰にも無いのだ。

 そして、お亡くなりになった人、負傷された人にはかけがえのない大切な名前があった。名前を知って、ご冥福をお祈りしたい。親御さんたちは公表したくないのかもしれないが。被害者の名前を報道しない方が、良いという考えも分かるものの。

 彼らに捧げるための、花束を描いた。