スミレ待つ

 昨夜、叔母の法要と叔父の見舞いの旅から帰る。鍋にはchosu手製のビーフシチューが。
 朝ベランダの小人庭園に水を遣ると・・・・スミレ姫は大きくなっていた。まだ可憐な姿で咲き続けて、chosu-manmaの帰りを待っていてくれた。あなかしこ。

 25日クリスマス寒波
 旧友Sと、自宅に向かう帰路の途中駅で待ち合わせ。駅から本町シャッター通りを歩き、熱々のカレーうどんで再会を祝う。そして、Sちゃんのこの夏の大冒険旅行報告を聞く。彼女は、お盆休みに単身屋久島へ行き縄文爺さんに会い、森をトレッキング。スキューバーダイビングも楽しんできたと言う。すごいすごい!

 ここは、門前町。繊維で栄えた街だったが・・・。真正面には大きな神社。既に門松が鳥居の両側に立てられていた。暮れから既に正月の準備が整っていて感心した。折角だからと、ふたりで参拝。
 境内には、三段重ねの薦被り。信長由来のお酒もたくさん積み上げられていた。

 ふたりで近況報告。デパート内のお洒落な喫茶店へ入り、おいしいココアと渋皮マロンワッフルでクリスマス会。
 息子さんが来年成人式。今年は大学か専門学校へ進む予定だという。本当に良かった。
 認知症の姑も元気で安定しているとのこと。

 あのとき。
 第二子が生まれて、その坊やが先天性の全盲であると知ったとき。とてもショックだったけれど、彼は元気に育っているよ、とSから便りが届いた。十八年前だった。
 そして七ヵ月後。坊やは、Sが仕事で外出中に、乳児突然死症候群で亡くなった。

 子を亡くす悲しみとはどんなものだろうか。
断腸の思いとは、どういうものだろうか・・・・・
 坊やがなくなってからも母乳が止まらないのが悲しかったとSは言った。

 けれど見よ。Sはその悲しみと共に、元気に生きている。今もきっと坊やとともに。

 24日  叔父からのクリスマスプレゼント
 認知症の叔父を見舞う。
叔母の急逝から七週間。叔父には連れ合いの死を伝えていないという。
 叔父の娘Tと病室で待ち合わせ。
叔父は、左側の鼻の穴に管をつけられて、両手を拘束されていた。けれど「おじさん、お見舞いに来たよ」と耳元で挨拶するとぱっと目を開けてくれた。目には正気の光が感じられる。
 叔父の拘束を解き手を握るTに倣って、chosu-manmaもずっと彼の右手を握った。あたたかい。そして握り返してくれる。叔母の十八番(さざんかの宿)を叔父の耳元でchosu-manmaとTは合唱した。

 「お父さん。chosu-manmaが来てくれたよ、良かったね」かん高い声でTが言うと、叔父はうんうん、と声を発し首を縦に二度振った。

 これは、すごい。まだまだ彼は耳が聞こえるし、意思を示せるのだ。嬉しい。嬉しいよ。叔父さんありがとう。

 病院から、Tに車で叔母の家へ乗せてもらい、遺品をもらう。ものすごい量の叔母の捨てなかったものたちで二階はあふれていた。

 23日 晴天あたたか
 叔母の忌明け法要。足の踏み場のなかった叔母の家を、娘達夫婦で必死に片付けたのだろう。10時半、二十数人が二部屋に座り、ぐつぐつの中で読経が始まった。
 三十数年前、土地も家も自分達夫婦だけで買ったのだと、この家をふたりはどんなに誇らしく思って住み始めたことだろうか。

 叔母は、ふたりの娘を嫁がせて、パート勤めを終えてから腰が曲がってしまった。けれど、一切の助けを借りず炊事と洗濯は必死にこなしていたのだろう・・・・。恐らく、掃除と整理整頓が何年も何年もできなかったのだろう。茶箪笥の上にごちゃごちゃ置いてあるお土産の人形の頭にそれぞれ五cmずつ降り積もっていた。

 22日
 さあ、出発。朝八時半。銀行で二千円札に二万円分を両替。お年玉を上げよう、とふと気づいた。正月はchosu-pampaの休みがないので、故郷にいられない。25日帰宅予定。風邪を引かない。元気で帰ってこよう。七時間かけてやっと実家に辿り着く。
 「しゃぶしゃぶ」に連れて行く、と言ったZ君は、仕事が遅くなるから、ふたりで外食してと言う。夕べ「自宅で食べるから外食したくない」とchosu-manma
が言ったばかりなのに。すぐに漸減を翻してしまうZくんは、若年性アルツハイマーになるのではないか、と心配だ。