父は被爆者

 chosu-manmaの父は、65年前の今日長崎にいた。16才で高校を中退し志願兵となり原郵便局を警備していた。広島に新型爆弾が落とされ救援要請を受け父の部隊は広島へ行った。長崎に原爆が投下された日には広島に入っていたという。そのときの状況を、知りたがるchosu-manmaに一言も伝えず、彼は亡くなった。話そうとしても、そのときの情景があまりにも凄まじく込み上げるのか、言葉にならなかった。「うおおお↑おおん↓」と言って、話せなかった。
 彼は、救援を続けて終戦を迎えたが、親しくなったあるひとりの負傷者を置いて故郷に還ることが出来ず、尾道で長く看護を続けて留まっていたという。

 生前父は、よく長崎での被爆を免れられたものだと、喜んで話していたが・・・。今思うと残留放射能は今日でも広島市内の地中深くから発見されている。おそらく彼も入市被爆者のひとりだろう。晩年前立腺癌となったことや非常に疲れやすかったこと、唇の色が紫色だったことなどを思い出す。
 あのとき自分も放射能を浴びていたとは、夢にも思わず、ただただ黒こげの死体を片付け、負傷した人を一所懸命運んでいたのだろう。

 皆より遅れて帰郷した父は、自分の体が弱ったことにも気づかず、一所懸命働いて家族を養い、死んでいったのだなあ。

 戦争に行かなくても、一年後には敗戦だった。

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  NHKTVで、吉永小百合ちゃんの原爆詩朗読の番組を観る。熱い心で冷静に読むということは、なかなかできるものではない。泣いてしまっては、聞き手に言葉が伝わらない・・・・。本当に美しくて、声がしっとりしていて、凛とした小百合ちゃん。被爆者の人たちとの交流や被爆した楠を見つめるお姿に感銘を受ける。あっ、小百合さんではなくて、原爆許すまじを考えねば。
 浦上天主堂被爆のマリア像が、スペイン・ゲルニカ(世界初の無差別爆撃を受けた村)の教会のマリア像と出会った場面は悲しかった。