七夕の日に

 昨日、西瓜や葡萄、桃と和菓子を父の遺影にお供えする。桃は「えんざん」産とある。私が31年前、A先生に会いに行った町、塩山市東雲農協の桃の選果場を思い出した。
 今から、31年前、首都圏近郊から集まったボランティアが農協の二階に泊り込み、桃の選果箱詰め、出荷作業をしてその純益を福祉事業に寄付し、夜は福祉の専門家の講演会を聴くというワークキャンプの参加募集記事が読売新聞に掲載された。

 A先生が、自分も講演会に出るので、是非いらっしゃい、とお誘い下さったのだ。首都圏に住まぬchosu-manmaは、父に交通費をだしてもらい、友人達と行くからと嘘をつき、高熱が続いていたが、ふらふらの体だったのに元気な振りをして、遠路はるばる参加した。

 あのとき、次々に流れてくる桃を、そっと箱詰めした「白鳳」という品種名。懐かしい。

 暑かった。苦しかった。目が回った。でも。見ず知らずの皆が倒れた私を、助けてくれた。なかには看護師の人もいて親身になって世話してくれた。

 A先生にとうとう会えた。彼の、大笑いするかわいい細君にも。

 既に、A先生だけではなく彼女もchosu-manmaから届く手紙のファンになっていたのだった。
 
 A先生とは、児童文学者永井 明。『終わりのない道』を書いた。中二のとき、これを読んで、いたく感動したchosu-manmaは、感想を書き送った。すると、まさかまさか、A先生は、お返事を下さった!

 やがて大学生になったchosu-manmaは、ついに憧れのA先生の講演後に、対面を30分くらいだったか、果たしたのだ。病の中で。農協の部屋で。

 けれど、・・・・。「また、ご自宅へお伺いしますと約束して」キャンプから帰宅したchosu-manmaは、即入院。〇病だと判明。生まれてはじめての入院をすることになった。chosu-manmaの回復を祈り続けてくださったA先生は、翌年3月急逝された。

 驚きと哀しみ。

 そして、よくぞ人生只一度でもA先生にあえたものだと感歎!高熱をおしても会いに行けて良かった。結果的には。chosu-manmaの持病の早期発見につながり、軽いまま今日まで生きながらえている。
 天国のA先生のお蔭か、chosu-manmaは回復し、休学していた大学に戻ることが出来たのだった。これは、ちいさな桃の物語